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福岡高等裁判所 昭和49年(う)271号 判決 1975年3月11日

被告人 猪股俊雄

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人梅津長谷雄提出の控訴趣意書ならびに控訴趣意補充書記載のとおりであるからここにこれを引用する。これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。

一  控訴趣意第一点事実誤認の主張について。

所論は、原判決は、原判示第一の事実につき、被告人が過労のため睡けを覚え前方注視が困難な状態になつたのに、直ちに運転を中止し睡けをさましてのち運転を再開すべき業務上の注意義務を怠り、漫然運転を継続した過失により、自車を道路中央線を越え、折から反対方向より進行して来た山田美博運転の軽四輪貨物自動車に衝突させた旨認定しているが、これは事実の誤認である。すなわち、被告人は、本件事故現場に差しかかつた頃から睡けを覚えたので、ドライブイン「鈴田峠」に立寄つて自宅の娘に電話したり、目薬をさしたりすれば睡けもさめると考え、右折の方向指示灯を点滅しながら道路右側に入つたが、『電話をかけているうちに家に着く』と思い直し、右折の方向指示器をもどして道路左側に返えそうとして後方を振返つた直後大きなシヨツクを受けて失神したもので、被告人には過失はないというのである。

そこで原審記録を調査し、これに当審における事実取調の結果をも併せて考察するに、原判決挙示の証拠によれば原判示第一の事実は十分認められ、記録を精査しても、原判決に所論のような事実の誤認があるとは認められない。すなわち、右各証拠、ことに司法巡査作成の本件当日事故直後に実施された実況見分の調書によれば、本件事故現場は、諫早市から大村市に通ずる国道三四号線上の通称「鈴田峠」といわれるところで、幅員約七・六メートルの舗装道路の中央に白線で中央線が設けられており、事故現場から大村市方面に約五〇メートル進行したところに右カーブが、逆に諫早市方面に約五〇メートル進行したところに左カーブがあつて、両カーブの間すなわち本件事故現場附近は約一〇〇メートルの直線道路で、諫早市方面からは傾斜約一度の下り坂になつており、事故現場から大村市方面への見とおしは約五〇メートル、諫早市方面への見とおしは約三〇〇メートルであること、右事故現場の東側にドライブイン「鈴田峠」があり、実況見分開始当時被告人車の進行方向(諫早市方面から大村方面に)の道路から道路中央線を越え道路右側の対向車線上に長さ約一〇メートルのスリツプ痕が印されていたが、五分後降雨のため消えたことが認められ、また本件事故の唯一の目撃者である三根勝久の司法巡査に対する供述調書によれば、同人は大型貨物自動車を運転して大村市方面から諫早市方面に向け進行中、事故現場の手前約三〇〇メートルのところでナシヨナルの軽貨物自動車(被害車)に追い越されたが、事故現場の約五〇メートル手前のところで諫早市方面から坂を下りてくるライトバン(被告人車)が中央線を越え道路右側を走つてきているように感じたので対向車と衝突せんだろうかと思つていたら、すぐナシヨナルの車と正面衝突したこと、その時被告人車は明らかに中央線を越えていたこと、三根運転の大型車は運転台が高いので前を行くナシヨナル車の状況はよく見えていたことが認められる。右各証拠によれば、被告人車は、本件事故現場の手前から道路中央線を越えて道路右側の対向車線に入り、折から対向してきた被害車と正面衝突したものというべく、しかも被告人が右事故直前睡けを覚えていたことは被告人の自認するところであるから、右の事実と本件事故の状況を併せ考えると、右事故が原判示のように被告人が過労のため睡けを覚えて前方注視が困難な状態になつたのに、そのまま運転を継続した過失により生じたものであることは明らかである。さらに、被告人車のスリツプ痕は、道路中央線から道路右側に向けほぼ斜めに約一〇メートルもついていたのであるから、その形状からして、所論のように被告人がドライブインに立寄ろうとして一旦道路右側に入つたが、その後再び道路左側に返ろうとした際、対向して来る被害車を認めてハンドルを右に切りながら急ブレーキをかけたものとは到底考えられず、所論は、被告人の記憶していない事故当時の状況を推測して述べているに過ぎないから、採用できない。論旨は理由がない。

一  控訴趣意第二点訴訟手続の法令違反、ひいて事実誤認の主張について。

所論は、原判決は、原判示第二の事実につき、被告人が血液一ミリリツトルにつき〇・五ミリグラム以上のアルコールを身体に保有する状態で自動車を運転した旨認定し、その証拠として、大村警察署長作成の鑑定申請書謄本およびこれに対する長崎県警察本部長作成の鑑定結果回答書を挙示しているが、右鑑定に使用された血液は果して被告人の血液であるか、また誰が採取したものか疑わしいものであり、しかも失神状態にある被告人からアルコール濃度検査のため令状なしに採取したものであるから、右採血は違法であり、これを鑑定の資料とした右鑑定結果回答書等は証拠能力がない。しからば、右各書面を証拠として採用した原判決は訴訟手続の法令違反を冒し、ひいては無罪たるべき事実を有罪と誤認したもので、右の誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

よつて案ずるに、当審証人陳内義貞、同寺本成美に対する各尋問調書によれば、本件事故直後現場の実況見分をした大村警察署交通課事故処理担当の警察官陳内義貞は、事故が昼間見とおしのよい場所で起きたことから飲酒運転ではないかと考え、国立大村病院に赴いたところ、同病院の医師から今連れてこられた患者は酒の臭がしていたといわれ、しかも当時被告人は手術中で風船による通常の検査が不可能であつたので、被告人の血液を採取しようと考え、事故処理車から持つてきた試験管を看護婦に渡し、被告人の飲酒量を検出するためだから、アルコールのついていないガーゼか脱脂綿にしみついている血液でもよいから試験管に入れてくれと頼んだところ、看護婦において、被告人の手術を担当していた医師寺本成美の指示に従い、被告人の出血を押えていたガーゼについていた血液五・六ミリグラムを右試験管に入れて、手術室の外で待つていた陳内巡査に手渡したので、同巡査は右試験管をゴム栓で密封し、そのまま自宅の冷蔵庫に保管したうえ、大村警察署鑑識課を通じて長崎県警察本部鑑識課にその鑑定を依頼したこと、本件事故当日寺本医師担当の手術室には被告人だけしか運んでおらず、被告人の血液と他人の血液とが混じるおそれはなかつたことが認められ、右認定に反する当審証人猪股澄子の証言はたやすく措信できない。右の事実関係によれば、被告人の血液の採取は、法定の令状も被告人の承諾もなしに行われたものであるから、一応問題の余地はあるが、当時被告人には酒気帯び運転をした疑いがあつたので、被告人がその身体に保有するアルコールの程度を測定するため、本件の捜査を担当した陳内巡査において、手術担当の主治医の承諾の下に、手術中の被告人の体から流れ出る血液を押えていたガーゼから看護婦に少量の血液を採取してもらつたものであることが認められるので、右採血は被告人の身体に何らの障害も苦痛も与えるものでなく、たとえ意識不明の被告人やその家族の同意を得ていなかつたとしても、右のような状況の下でなされた被告人の採血は適法なものというべく、また右のような方法で採取した血液と鑑定の資料とされた血液とは同一の物であると認めるのが相当である。

のみならず、原審記録によれば、右鑑定申請書謄本および鑑定結果回答書は、原審第一回公判廷において、いずれも弁護人がこれを証拠とすることに同意し、異議なく適法な証拠調を経たものであることが明らかであるから、右各書証は、採血手続の違法であるかどうかにかかわらず証拠能力を有するものであつて、これを証拠に採用した原判決には、何ら違法を認めることはできない。

さらに所論は、事故当日の午前中被告人の妻が被告人車の中で清酒一・八リツトル入瓶を取り落して破損し、車内に酒のにおいが満ちていたため、被告人に酒の臭がしていたものである旨主張し、当審証人猪股澄子、同木下米雄に対する各尋問調書中には右主張に添うものもあるが、被告人の検察官に対する供述調書ならびに当審における供述によれば、被告人は、本件事故当日の昼前太良嶽の山開きで清酒の振舞を受け、さらに自分の出店で客にすすめられてコツプ一杯のビールを飲み、二・三時間後に自動車を運転して大村市に向つたものであるが、車内に酒のにおいがしたので自車の窓をあけて出発し、途中降雨のため一時窓を閉めたが、その後は小窓をあけていたことが認められるので、右各証言はたやすく措信できないばかりでなく、原判示第二の酒気帯有を肯認した証拠資料は、前記のとおり被告人の血液であつてその呼気などではないので、酒臭の有無自体は犯罪の成否に消長をきたすゆえんのものではない。所論も採用できない。

以上の次第で、原裁判所の証拠の採否に訴訟手続の法令違反等の不合理はなく、記録を精査しても、原判決に事実の誤認の瑕疵は存しないので、論旨は理由がない。

一  控訴趣意第三点量刑不当の主張について。

そこで原審記録を調査し、これに当審における事実取調の結果をも併せて考察するに、本件は、原判示のように、被告人が軽四輪貨物自動車を運転して原判示道路を進行中、過労のため睡けを覚え前方注視が困難な状態になつたので、直ちに運転を中止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、漫然そのまま運転を継続した過失により、道路中央線を越えて道路左側に進出し、折から対向してきた山田美博運転の軽四輪貨物自動車に正面衝突し、同人ほか一名に対し原判示のような各傷害を負わせたという事案であつて、被害者笠井信一郎は脳挫傷等のため身動きもできない状態で病床にあり、事故後一年余りたつて漸く口から食物をとり、簡単な口答ができるようになつたが、症状の固定にはなお一年を要する重症であること、被害者らには何らの落度も認められず、本件事故は被告人の一方的過失によるものであること、しかも被告人は右事故当時酒気帯び運転をしており、これまでに無免許運転で罰金刑に処せられた前科があること等を総合すれば、被告人の刑責は重いといわざるを得ない。所論指摘の本件事故が連日の働き過ぎによる過労がその原因となつたもので、飲酒後二・三時間して本件自動車を運転していること、被告人には前記罰金刑以外に交通違反等の前科はなく、本件事故により身体障害者福祉法別表第五級に該当する身体障害者となり、通常の労働ができなくなつたこと、被害者山田美博に対しては、休業補償として五九万九八四四円を支払つたほか、慰藉料として金五〇万円を支払うことを約し、うち一〇万円を昭和四九年六月一七日に支払い、同年七月以降毎月二万円を支払つていること、被害者笠井信一郎に対しては、同年五月一七日までに合計七〇万円(そのほかに保険金五〇万円支給)を支払い、以後退院まで毎月五万円ないし七万円を支払い、退院後正式に示談することで合意が成立し、被害者両名とその家族が被告人を宥恕していること、本件後火災により家財道具、衣類一切を焼失していること、被告人が現在では深く反省していること、その家庭の事情等被告人に有利な諸事情を十分斟酌しても、本件が執行猶予を付すべき事案とは認め難く、原判決の科刑が重きに過ぎて不当であるとは考えられない。論旨は理由がない。

よつて、刑事訴訟法三九六条に則り本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は同法一八一条一項本文により被告人にこれを負担させることとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 淵上壽 徳松巖 松本光雄)

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